四日市:あります! 『アニメV』とか『グロービアン』とか!
ばるぼら:あ、あれOVA雑誌だったんだ。はじめてシリウス。
四日市:いいね、そのトップをねらえネタ!
イラン情報を日本語でつぶやくtwitterer集団をまとめました。
彼等はサイバー戦争と化した英語圏twitterでなんとか、正しい情報をあぶりだそうと努力している方々です。
また、いろんな英語圏・日本語圏のニュースからすばやく重要な情報を拾ってきて、つぶやいてくれます。
ニュースだけでは理解できないイラン情勢を各自のブログで解説したりもしています。
英語圏に乗り出す前に、まず、彼らの声に耳を傾けるといいのでは?と思い、まとめました。
- http://twitter.com/nofrills
- http://twitter.com/kobahen
- http://twitter.com/fumi
- http://twitter.com/moca_matari
- http://twitter.com/rocketroater
- http://twitter.com/ikebukuro
- http://twitter.com/cafefes
- http://twitter.com/tumamo
- http://twitter.com/himanainu_kawai
- http://twitter.com/kozi
- http://twitter.com/whynotnotice
- http://twitter.com/Arankun
- http://twitter.com/starasenrivero
takayuki_h@nagano_haru 「満員電車に乗るのが人生失うリスクと隣り合わせになる」ですね。さすがに殺人だの傷害だのだと巻き込まれる可能性は考慮する必要はありませんが、これはやばいですよ [Dev Phone OFF http://atnd.org/events/825]
nagano_haru@takayuki_h それをいったら、ホームに立ったら突き落とされるリスクも考慮しないと。
nagano_haruそして、危険を全部、リスクとみなして、自己責任化する流れ。(自然災害を除いて)
nagano_haruリスク=回避するのは自己責任 という図式がここでもでてきているなぁ。危険は回避できない、リスクは回避できるから、回避できなかった場合は自己責任。という図式。
takayuki_h@nagano_haru それは実行する人が犯罪者になるリスクと隣り合わせですよね?それに、痴漢冤罪というのはそもそも「司法の欠陥」のレイヤーの問題だと思うのですが [Dev Phone OFF http://atnd.org/events/825]
nagano_haru本来、冤罪事件の焦点は、やってもいない罪を着せられてしまう裁判の制度にもっていくのがいいと思う。
@nagano_haru@takayuki_h お、結論がなんとなく一緒ですね。>本来、冤罪事件の焦点は、やってもいない罪を着せられてしまう裁判の制度にもっていくのがいいと思う。 umkiifaなんで通勤ラッシュを緩和しようって話にならないのかなあ。痴漢冤罪なんて、満員電車が生み出す沢山の問題の一つに過ぎないのに、場当たり的な対策のせいで話が変な風にこじれている気がするのだ。ngano_haru「司法の欠陥」を男性専用車両で補うというところで、何かずれた違和感がある。
@nagano_haru その代わり、冤罪になってもまず表に出ませんよね?ということですよ。正直、通りすがりの誰かに悪意もたれたらその瞬間に人生終る、というのは怖いですよ [Dev Phone OFF http://atnd.org/events/825]
@nagano_haru そうなると、一件の表ざたになった冤罪の影に何件あるかということを考えると…二桁でも足りないかもしれません(^^;) [Dev Phone OFF http://atnd.org/events/825]約1時間前 Tweenで nagano_haru宛
@nagano_haru つまりですね、痴漢に限らず冤罪は思いっきり表に出ませんよね? だからこその有罪率99%オーバーなわけでして。 [Dev Phone OFF http://atnd.org/events/825]
「体罰 child abuse~権力の乱用について」@Tristan_Tristan
私が体罰に対して懐疑的なのは、しばしば「教育のため」と強調されるからです。「愛しているから殴る」という親や教師もいる。ではそれが「教育」であり「愛」であることを、定義しているのは誰でしょう。ほかならぬ体罰を加える当の大人たちです。
以前に少し書きましたが、物事に名前をつけ、定義し、意味づけることは、それ自体が権力的な側面を持ちます。専制的な政治体制下で「暴動」「騒乱」と呼ばれる行為が、政権が転覆すると「革命」「民主化」などと言われたりする。
現象は同じでも、どちらが権力を握るかで名称や意味づけが変わるのです。「体罰」を「愛」とか「教育」と定義する背景にも、同様の権力的な裏付けがあります。より具体的にいえば、現状の体罰とは、
(1)大人が子どもに暴力をふるう
(2)大人はそれを「愛」「教育」と定義する、という二つの要素から成っていることがわかります。
これに比較できる例を挙げれば、セクハラに対する言い訳でしょうか。男性上司が女性部下の体を触って、「親しみの表現だった」というアレ。30年くらい前までなら、これで問題なく通っていました。なぜなら職場では男性上司が「定義する権力」を握っていたからです。
体罰を全面的に否定はしません。
秩序維持や緊急避難に必要なケースはあり得る。私も偉そうなことを言いつつ、長男のお尻を一度叩いたことがあります。ただ体罰を「愛」「教育」と呼ぶとき、大人は暴力だけでなく、「定義する権力」も同時にふるっているという点には、せめて自覚的であるべきです。児童虐待は英語で「child abuse」。
「abuse」は、「abnormal」でも使われる接頭辞「ab」と「use」から成り、「乱用」「誤用」という意味です。米国で児童虐待対策の研究や実務を経験してきた専門家たちは、日本語の「虐待」との意味の違いをよく強調します。英語圏の人々の日常語の感覚がわからないので、理解がずれているかもしれない点は留保しますが、日本語で「虐待」と呼ばれる行為を英語で「乱用」と呼ぶのを知ったのは目から鱗でした。
まさに体罰を「愛」「教育」と呼ぶことも、一種の「乱用」ではないのかと。「児童虐待」を「子どもの乱用」と解釈すると、乱用されるのは子ども自身だけでなく、大人と子どもの関係性、体や力の違い、社会的立場など多様。ほぼ全ての文脈で大人は子どもに優位に立てる。子どもへの暴力は、そうした重層的な構図に目を配りたい。子どもには「定義する権力」がないからです。